カニのあかびらいふ

北海道赤平市で町おこしなどをしながらフリーデザイナーとなってしまったおバカなカニのお話。

一人旅に出ても、結局誰か「に」喋りたいのかもしれない

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私がまだ若くて、自分に自信もなければ経験も無くて、卑屈で、それでいて自尊心だけは高かったためにそんな自分を隠したかったその頃。

私は1人で旅に出るのが好きでした。

 

とは言えビビりの私が一人で行けるのなんてドライブ程度の距離か、国内旅行程度。

海外なんか怖くて行けません。

(ていうかお金も時間もないから全然行ってないんですけど笑)

 

その頃の私は友達とワイワイするのも好きだったのですが、どうにもこうにも「そんな自分」と「自分」を切り離したい気持ちがあって、ひとりになるのはそのためでした。

普段のダメな自分を誰も知らないところに行って

まるで色々な経験をしてきた旅人風に振舞って

違う自分で違う世界に行きたい、という意味合いが強かったような気がします。

 

超絶人見知りだった私は、旅先で知らない人と喋るなんて到底できませんでした。

「1人を楽しんでるのよ」

的な顔をして、旅先でひとりセルフトークを楽しんでおりました。

 

だけど実は心の底では

見た景色の感想を言いたい!

誰かにこの気持ちを共有したい!!

と思ってたんです。

(今はそれがツイッターで簡単にできて便利です笑)

 

ですが誰かと喋って、ダサイ自分がバレても困ります。

それに知らない人に話しかけれません。

 

そんなジレンマを抱えて、どこへ行ってもスーッとひとを避けて過ごしてきました。

でもそんな中でも本当にたまたま話した人が居た旅は強烈に記憶に残っているし、その人は今も友達だったりします。

 

 

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時は経って、少し図々しくなった現在の私。

 

稚内の「大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所跡(通称:赤レンガ通信所)」の一般公開に行ってきました。

 

ここは旧海軍の通信所跡で、太平洋戦争の時にはその開戦のきっかけにもなった真珠湾攻撃の合図「ニイタヤマノボレ」を送信したと言われているそうです。

終戦後は昭和37年(1962)まで米軍がキャンプ地としていて、その後は放置されていましたが平成18年(2006)に稚内市が国から譲渡を受け、その頃から「稚内市歴史・まち研究会」さんが保存・活用できないかとその道を探ってこられたそうです。

旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所/稚内市

少しずつ補修を続け、現在は太陽財団からの助成やクラウドファンディングで倒壊した部分の補修等が進んでいます。

 

今回はそんな会の方々によって行われた一般公開に行ってきました。

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家族で沖縄に行った時、みんながファイターズのキャンプとか美ら海水族館とか行ってる間ひとりレンタカーを借りて戦跡めぐりをしていた程度に戦争遺産にも興味を持っていた私は、北海道にもその跡があると知ってからずっと行きたいと思っていたところでした。

 

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建物としては3つ残っていて、そのうち2つは内部も見ることができます。

一番大きい棟は倒壊部分があるため立入はできませんでした。

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レンガ造りの意匠や、年月を重ねて崩れていったその様に圧倒的な迫力を感じるのはもちろんのこと、今の私にとって一番強く印象に残ったのは「補修していること」でした。

私は廃墟が好きなのでどちらかというと「自然に還っていくもの」が好きなのですが、どうしてもそれは感情が許さないものがあります。

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それは私の住んでいる赤平市の住友赤平炭鉱で、しかしどうしても年月の経過というものがあるので「100年後には違う姿になっているのだろう」ということは心のどこかで覚悟しています。

(私は100年後には死んでるんだけどね…笑)

 

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しかしこの通信所は「当時のままの部分」「経年と共に崩れ落ちた部分」そして

当時の姿に戻そうと補修した「今」の姿

という時間の流れと、そこに関わる人によって生まれた変化を全て一ヵ所で見ることができました。

 

諸行無常とは言いますが、崩れていくだけが時の流れではない、と思わされました。

 

そしてそのうちの一番小さい棟には、人が集まっていました。

恐らく会の関係者の方々なのでしょう。

 

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昔の私だったら人見知りを大爆発させて、挨拶もそこそこに逃げ出して写真だけ撮って帰っていたことでしょう。

しかし今となっては図々しくなってしまった私。

 

「こんにちはー!!」と入っていって

「ここ受付ですか??」「パンフレット?あ、ありがとうございます!」「どことどこを見れますか?」「雨すごいですねー!!」「ちょっと見てから戻ってきますね!!」

と喋りまくる笑。

 

写真を撮っていると一人のおじちゃんが説明をしてくれました。

その方との時間は「聞いている」のではなくて「教えてもらって、会話をしている」ものでした。

 

雨の中見て回り、時々雨宿りし、満足して元の建物に戻ると先ほどのおじちゃんと、他に数名の方々が。

「どっから来たのー!赤平?あらーまた遠いとこから!」

なんて話をしているうちに、ついつい図々しさがさらに出て

「私も空知のあたりで炭鉱の跡とかに関わってまして…」

なんて話してしまう始末。

 

当然おじちゃん達は炭鉱なんぞに興味があるわけないのは分かっています。それでも、なぜか「私の話をしたい!」と思ってしまったんです。

ごめんねおじちゃん達…。笑

 

そんな数名のおじちゃん達に何度もお礼を言って私は赤レンガ通信所を後にしました。

 

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帰り道の車の中で、どうして私は自分の話なんかしてしまったんだろうと考えました。

どう考えても私は「話せたこと」が嬉しかったんです。

 

見ただけ、聞いただけじゃない

相手の話を聞いて、自分の話をすること

それだけで出かけた先の印象がかなり強くなることに気が付きました。

 

そして同時に、以前の私は「自分」と「旅先の自分」を切り離そうとしていたことに対して、今は旅先の「誰でもない自分」を「自分」に引き寄せようとしていることにも気が付きました。

もはや旅は普段の自分から逃げるところではなく、自分を拡張しに行く場所になっているようです。

そして、それに至るだけのちょっとした図々しさみたいなものを私は身に着けたようで、人見知りで仕事もできなくてビビりで頭の回転が悪くてすぐパニクる自分には変わりないのにも関わらず、卑屈になってそれを隠そうとしたりしなくなったみたいです。

 

きっと普通の人ならたくさんの人生経験のうちにとっくに身に着けているものだったのでしょうが、ようやく私は最近それに気が付き始めました。

お陰様で知らない人に挨拶したり、話をしたりできるようになりました。

それによって旅は今迄よりももっと深くなっていきそうです。

 

なぁんて日帰りで稚内に行って人と喋ってきただけで大げさですが笑

通信所の温かく迎えてくれた皆さんには本当に感謝していますし、また行きたい場所のひとつになりました。

 

そして、自分が赤平で人を迎える時にはそうありたい、とも思いました。

 

あと

早くどっか旅に行きたい…。

コロナめ。笑

 

ではでは。