カニのあかびらいふ

北海道赤平市で町おこしなどをしながらフリーデザイナーとなってしまったおバカなカニのお話。

変わる日常に慣れていく日々


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諸行無常とは良く言うけれど、人も世界も建物も、みんなどんどん変わっていく。

変化が苦手な人間にとってこれはなかなか大変なことなのだけど、世界はそうやって続いてきたのだから受け入れるしかない。

 

コロナ禍が始まった頃は、生活が一変してしまって大変だった人も多かっただろう。

幸い私の住むまちは人口がめちゃくちゃ少ないので当初感染は全然広がらなかった。

それでも生活は変わった。

 

最初は我慢した。

飲みに行く日常を我慢した。

札幌に行って家族と会う日常を我慢した。

スタッフとして関わってたイベントの開催がなくなって我慢した。

楽しみにしてたお祭りが無くなって我慢した。

 

そうやって我慢の日々が続いた。

続いていくうちに、我慢する日常が平常になってきた。

 

飲みに行かない方が多くなった。

お祭りが無いのが当たり前になった。

家族に会わなくても意外と平気だった。

 

よくコロナで飲食店にテレビがインタビューすると「コロナが落ち着いた後離れたお客さんが戻ってきてくれるのか不安」って声を聞いたけど、本当にこれが怖いところだと思った。

無いことに慣れてしまったらもう、「有る」生活に戻るにはまた変化が必要で。

無いことに慣れてしまったら、再開するにはエネルギーが必要で。

これがなんとかマンパワーでギリギリやってたイベントとか会議とかお祭りとかお店だと、無いことに慣れるともう元には戻らないかもしれない。

会わなくても、行かなくても、やらなくても、意外と日常は続いていくものだったもんだから。

 

これが一過性と言うには長すぎて、下手したらこの日常に慣れた後はお店が無くても、イベントが無くても、みんな平気になってるかもしれない。

 

そういう私も出来ないことが多すぎて新しい趣味を見付けたり、違う方法で酒を飲んだりするようになって。

もしかしてこのまま、今まで会うのが日常だった人と会わないのが平気になって、あるのが当たり前だったお祭りに行かないのが平気になって、そうやって慣れていくのかもしれない。

 

思えば転校した時もそうだった。

転校する前は友達と別れを惜しんだり「絶対手紙送るからね!」なんて言ってたもんだけど、結局彼らが今どこで何をしてるのかは知らない。

引っ越した先の生活に私は慣れたし、彼らも私が居ないことになんて数日後には慣れていただろう。

 

YOSAKOIもそうだった。

踊らないなんて、大通りに行かないなんて、西8前でファイナルを見ないなんて考えられなかった。

でも今はそれが普通。

 

大好きな夏フェスも2年連続無くなった。

今までRSRのない8月なんて信じられなかったけど、無くても2年も過ごせてる。

なんだか来年本当に自分は行くだろうかって思ってる。

それよりも楽しい過ごし方を見付けてしまってるかもしれない。

 

人は慣れる。

それは救いのようでもあるけれど、とても怖いもののようにも思える。

 

誰かに会わないのが平気になった時、忙しいからと会うのをどんどん先延ばしにして、いつの間にか距離が広がって、いつの間にか会わなくなって、別れも告げないままさよならすることになるかもしれない。

 

でもそれも、寂しいけれど世の常なんだろうな。

寂しい悲しいままは生きていけないから、慣れることは救いの一種かもしれない。

 

それに、そんな変化が新しい世界の始まりかもしれないしね。

(しかしコロナは思ったほど世の仕組みをガラリと変えなくてガッカリした部分もあるのだけれど。まだまだ人は変化したくない部分もあるのかもね。)